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2006年9月22日 (金)

戦いに明け暮れた織田信長

1560年に駿河(静岡)の今川義元が2万以上の大軍を率いて尾張へ侵攻した織田家の危機に対して、織田信長は2千の軍勢で今川軍の陣中に強襲をかけた桶狭間の戦い。この時の織田信長は26才であった。
ここから織田信長の戦いの人生が始まる。

1566年には木下藤吉郎(羽柴秀吉)に墨俣城(一夜城)を築かせ、そこを拠点とし、美濃三人衆(稲葉、氏家、安藤)を味方につけ、信長は、稲葉城の斉藤道三の後をついだ斎藤龍興を敗走させ、1567年(永禄10)美濃国を手に入れた。この時の織田信長は33才であった。

1570年には近江国姉川河原で徳川家康と共に浅井・朝倉連合軍と戦った姉川の戦い。ここでは織田信長は浅井方に15段の備えの内13段まで破られるなど苦戦するが、徳川家康や美濃三人衆の奮戦もあり、浅井・朝倉軍を破った。織田信長37才である。

1571年には織田信長に抵抗する延暦寺を焼き討して僧侶など4000人を皆殺しにするなどした。織田信長38才。

1575年には武田信玄の後をついだ武田勝頼の1万5000の軍勢に対して、織田信長は徳川家康とともに、織田軍3万+徳川軍5000の連合軍で、武田軍1万5000を完膚なきまでに叩きのめしたのが長篠の戦い。この戦いで織田信長は鉄砲隊を三つに分け、鉄砲の弾込めによるタイムロスをなくす三段撃ち戦法を使ったと言われている。織田信長42才である。

その後は北陸方面の柴田勝家軍団 、中山方面の織田信忠軍団、畿内方面の明智光秀軍団 、中国方面の羽柴秀吉軍団 、四国方面の丹羽長秀軍団、対本願寺方面の佐久間信盛軍団、東海道の押さえに徳川家康と布陣を敷いた。

1582年に明智光秀は上洛してきた徳川家康の接待をしていた最中に、織田信長から接待役の任を解かされ、毛利軍と戦う羽柴秀吉への援軍に向かうよう命じられた。織田信長も毛利遠征の出兵準備の為に上洛し、本能寺(京都市)に滞在していた。そこに明智光秀軍が突然京都に現れ、本能寺を急襲。織田信長は6月2日に自害したとされるのが本能寺の変。しかし信長の死体は見つからなかったと言われている。織田信長49才の戦いに明け暮れた人生であった。

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